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『きものの里』探訪  【八重山上布 Part1】

『きものの里』探訪 【第一弾 八重山上布の里】

名匠 新垣幸子(あらかき さちこ)を訪ねて


着物の里探訪記第一弾は、エメラルド色の海と珊瑚礁に囲まれた美しい島 石垣島【沖縄県石垣市】に名匠 新垣幸子さんの工房を訪ねました。
【名匠 新垣幸子】
新垣先生
新垣先生に、八重山上布の復活にかける情熱について力強く語っていただきました。

(はじめに)
みなさん 石垣島をご存知ですか?
石垣島は北緯24度20分 東経124度9分に位置する八重山諸島中心の島で人口は約5万人です。
年間の平均気温は24℃と暖かな亜熱帯性気候に属しています。
また、東京からの距離は1,952Km 飛行機で約3時間30分かかりますが、逆に隣国の台湾までの距離は278Kmと近く、台湾からも定期的に観光フェリーが訪れています。 
このような地理的な条件が、大和文化・中国文化が融合した音楽・伝統芸能・織り染め物等のすばらしい八重山諸島独特の文化を育んできました。

【美しい石垣島】

石垣島風景1


石垣島風景2


(新垣幸子の功績---幻の染色技法復活---)
八重山上布とは、上質の苧麻(ちょま)で織られた織物で、軽くて清涼感あふれる風通しのいい夏用の着物です。

17世紀初頭、薩摩藩が琉球を侵略し、税金として八重山上布を収めさせた。
八重山上布はいわゆる貢納布として歴史に名を残すこととなる。
明治になり、貢納布制度は廃止された。その後、昭和の大戦中一時、八重山上布の生産は中止されていたが、戦後も細々と伝統は受け継がれてきた。
その当時の八重山上布と言えば白地に茶絣が代名詞であり、いまでもそのように思っている方が多いのではないか。

新垣幸子は上京したときに東京目黒区にある『日本民藝館』で展示されていた白地以外の様々な色の八重山上布達に出会い心をはずませた。
新垣幸子が白地に茶絣だけではない八重山上布の復活に情熱を傾けた瞬間だった。

ここでエピソードを一つ紹介しよう。
新垣は 古い時代の八重山上布を探し求めていた。江戸時代に税金代わりに多くの八重山上布が納められていたのだから、骨董店を中心に探せば必ず見つけられると思っていたからだ。
しかし、いっこうに見つけることが出来ない。
ご存知の通り、上布は麻製である。麻は漆器の下張り材として重宝されていたのだ。
そう、古い上布はほとんどが、漆器の下張り材になっていた。だから古い上布は現在にほとんど残っていないのだ。(きものから姿を変えて漆器となる、とってもエコなリサイクルなのだが・・・)
この話を知り、新垣は私が復活させるしかないと心に強く思ったのだ。

この情熱があったからこそ新垣幸子は消え去りし染色方法を復活させることが出来たのだ。
そう、ここに幻の手括り染めが、名匠 新垣幸子の手で復活することとなった。

八重山上布には2種類の染色方法がある。一つは捺染(なっせん)という、竹筆で糸に染料を刷りこむ技法だ。

一方、新垣幸子が復活させた括染め(くくりぞめ)の技法は、色を染めない部分を括り染料に浸す技法だ。
新垣はずっと疑問に思っていたことがあった。
小さな柄の絣は、捺染の技法で上手くかすりになるが、大きな柄は上手くかすりにならない。なぜなんだ!
寝る間も惜しみ、連夜の試作が続いた。独自の工夫と研究の末、終に括染めの技法を復活させ、大きな柄も上手くかすりにすることができたのだ。

八重山上布復活の瞬間だ。


【新垣幸子が復活させた作品の数々】





                            PART2へ続く

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